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2009年08月31日

亡き母のためのパヴァーヌ(3)

前回の続きです。


実家に着くなり、私は怒られ続けました。

親族に囲まれて、怒られました。

反論せず、頷きもせず、ただただ嵐が過ぎるのを待つように、聞き流していました。


子供が親の死に目に会いに来ないとは!

亡くなった直後にかけつけないとは!

母親が今際の際に信仰を守れと言っているのに、
信心深くない上に、旦那を改宗させないとは!

子供に恥ずかしくない親になれ!


…と、いきなり言われ続け…。


あの・・・、私、一応、早く母親の死を悼みたいのですが?

って言うか、母親としてダメ的なこと、言われる筋合いはないんでは?

と内心思っておりました。


死に顔は病室での母親の表情とほとんど変わらず、
ああ、安らかに逝ったんだと思うのと同時に、
どうにも亡くなった実感が持てないままでした。


通夜会場に行くまでに、母は映画『おくりびと』の如く、
湯潅の後、身支度、納棺の流れになっていたのですが。


母から死に化粧を頼まれていたので、それまで実家に居続けたのです。

その間に、聞くわ聞くわ。悪口。

メガネ家にいると忘れてしまうのですけど、本当に我が家って悪意に満ちているんですね。

誰かが誰かのことを必ず愚痴っていたり罵っているわけです。


元々、なぜかその愚痴を聞く役割を担わされていたのですが、
私のことをしかりつける割にはなぜまた私にこぼす?
というツッコミをしたかったです。


死に化粧、と言っても口紅だけですが、
するために業者さんの担当から呼ばれた時、
母親の眼は閉じられ、口は少しほほ笑む形にされ、
顔色も綺麗に化粧されていました。

母親に似合いそうな口紅を持って行っていたのですが、
持っているものでもっといいものがあるかも、と、
メイクボックスを開けて驚きました。


私が大学生の頃に、母にとても可愛くて似合うとあげたグロスが、
大切に取ってあったのです。

ああ、きっとこの頃の私が、母にとって『素直なjunco』として記憶されているんだろうな、と切なくなりました。

よく

「juncoはメガネさんに影響を受けて今のような親不幸になっているけれど、
 目が覚めて反省し、元の親孝行な子になる」

みたいなことを仄めかしていたので。


綺麗に化粧でき、さて納棺、という時、祖父と父親から業者さんにダメ出しがされました。


彼らの信仰の教義で、理想の死に顔というのがありまして。

『半眼で口も半開き』が成仏ゲットだぜ★の証なんだそうです。


「ちょっと直してくれんかな」と頼む二人を見て、ゾッとしました。


私もその教義は子供のころに聞いていたので知っていたのですが、
それは自然にそういう形になったらという前提だと思っていたからです。


担当の人が部下の人に「ジュラルミン持ってきて…!」と言い放つのを聞いて、
「ちょっと待って!」と祖父達に言いたいのを堪えました。

「あんたたち、今からどういう作業をされるか想像せずに言ってるでしょう?」と言いたかったです。


口を出すということは、実家の人たちの中に入り込んで動き出すということ。

私はジュニアを守るためにも、徹底的に傍観者でいたかったので、黙りました。


母の顔は、半眼になっていました。

不自然に前方を見つめる黒い部分。

最初見た時は瞳だったのが、“瞳らしきもの”に。


お母さん、あなた、これで良かったの?


悲しい質問が宙に浮いたままでした。


通夜会場は、母が深くのめり込んでいた信仰の信者さん達がたくさん詰めかけました。


私が忘れてしまっていても、相手が私を子供の頃から知ってる人が、
涙ながら駆け寄って、励ましの言葉を置いていきました。


そのたびに、ジュニアを抱きしめながら、

「この子がいてくれたおかげで、親孝行ができました。」

と泣きながら言いました。


私が私らしくあり続ける限り、母親は私に不満を持つので、
その言葉は本心でした。


ですが。


涙の理由は、母が亡くなったことではありませんでした。


何死んじゃってるの?

私が幸せだってずっと信じなくて、幸せの本当の意味気付かないまま、
目の前にあったのに見ようとしないまま、
何死んじゃってるの?

アホじゃないの?


そう言いたくて言いたくて、悲しくなって、アホだなと思って泣けました。


ジュニアはその晩、会場を出て、家族3人になった瞬間から泣きっ放しでした。

2009年08月28日

亡き母のためのパヴァーヌ(2)

前回の続きです。


私の母への嫌悪感は、
『許す・許さない』『恨む・恨まない』などなどを飛び越えました。


メガネさんが「お見舞いには行けるだけ行こう」と言って、連れて行ってくれました。

ジュニアが病室にいる間だけ、母は正気を戻していました。


その様子を見聞きした祖父からは、
ジュニアがきっと延命装置に見えたのでしょう。


私のところに3日と開けずに祖父から連絡が来るようになり、
怒ってみたり、情に訴えようとしたり、泣いてみたり、
「きっと今夜が峠やからこちらに来るように」と言われ続けました。


もちろん、往復5時間以上ものドライブを週に何度もできるほど、
私もジュニアも体力がないですし、メガネさんも仕事があるので、
無茶な要求はスルーして、自分たちの精一杯のことをしました。


守るべきはジュニアであり、私たちの生活。

ぶれたり、罪悪感を持ったりしなかったのは、ジュニアの存在のおかげでした。


そして、母は亡くなりました。
痛みはなかったそうです。


亡くなる直前から何度も母のところへ行くよう祖父や兄から言われましたが、
冷静な父親と話をつけて、
亡くなった日の夜も、我が家で過ごしました。


翌日からはお通夜と葬儀のために、
朝早くから出発して宿泊もしないといけませんから、
私はいつものジュニアのお世話プラス宿泊の準備を、
メガネさんは仕事のまとめをしました。


怒涛の毒ファミリーと過ごす時間が、とうとう始まりました。

亡き母のためのパヴァーヌ(1)

8月25日、13時に母が亡くなりました。


以下、1か月前、7月26日に走り書きした日記。

―――――

今日またお見舞いに行ってきた。


死への恐怖からか、苦痛から逃れるためか、
心だけ違う世界に行ってしまった母親は、
言葉を失い、記憶も失っていた。


誰も認識しない、何も認識しない母親の視界に、
抱き上げられたジュニアが入った途端、

それまで意味を持たなかった母親の動きが、
意味をもって動き出した。


起こしてほしいと表すための突き上げられた腕。


抱き起こし、座らせ、隣に座って膝の上にジュニアを乗せ、
母親に見えるようにする。


その間も、母親の眼差しは、瞬きすることなく
ジュニアに張り付いたまま。


ジュニアに向って、ゆっくりと震える腕が近づいて、
想像できないほどの強さでジュニアの腕を握る。


母親の震えが伝わって、ジュニアまでふるふる震えていた。


閉じることのない、声も発さない口から、
痰が絡んだゴロゴロヒューヒューという音とは別の、
かすれた音が聞こえた。



(ジュニアの名前を呼んだ)


どうやら母親の世界には、
もう誰もいないはずだったのに、
ジュニアだけが、
暗闇に輝く小さなろうそくの灯りのように、
彼女の心に存在し、
求めずにはいられないもののようだった。


ゆっくりと自分の方にジュニアを引き寄せようとする。

膝の上に座らせる。

表情は変わらないのに、何か気に入らないらしい。


看護師さんが「もしかして顔が見えるように抱っこしたいのかも」と。

肩に抱き上げるような形でジュニアを持たせかけ支えると、
腕がゆるゆると動いて、ジュニアを抱きしめる。


パパもママも視界から見えなくなったジュニアはすぐにぐずるので、
引き離そうとすると、
母親の腕は意志をもってジュニアから離れなかった。


「ちょっと疲れたみたいだから、休憩させてあげて?」

ようやく手から力が抜ける。

目はやはり、ジュニアに釘付けのまま。


するとジュニアから目がそれたかと思うと、よだれかけに視線が。


よだれかけにつけてある、
おもちゃが落ちないためのクリップを必死で外そうとする。

ジュニアを抱っこする時に邪魔だったのだ。


ジュニアの機嫌をメガネさんと二人でよくして、

「おばあちゃんがジュニアをいい子いい子ってしたいらしいから、
 また抱っこさせてあげてくれる?」

と話して、ようやく母親の腕の中でおとなしくしたジュニア。


でもやはりそうそう持つわけではなく、
私がジュニアを抱き上げると、
母親がまたかすれた音を出した。

をっ



もっと、か。

私は急に病室が“おしまいの部屋”に思えた。

母親の、彼女の人格の、おしまいの場所。

命のおしまいの場所。

私の、娘としての存在のおしまい場所。

親孝行できる最後の場所。


嫌いで苦手で、もう一生関わりたくなかった母親への、
嫌悪感が終わった場所。


すべてがおしまい。


私は帰ってきたよ。


ただいま。


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